◎姉倉◎「叱る」と「怒る」は違わないよ、お母さん。
「叱る」と「怒る」は
違わないよ、お母さん。
よく、
「叱る」と「怒る」は違う。
と言います。
「怒る」は感情的。
「叱る」は相手のため。
そんなふうに
説明されたりします。
でも私は、
そもそもそれ、
叱ることに罪悪感を感じないための
逃げ口上になっていませんか?
と思うのです。
というか。
「叱る必要、
ありますかね?」
という案件、
膨大ですよ。
子どもは
叱らなくても覚えます。
穏やかに伝えても
考える力があります。
失敗したら
自分なりに省みる力だって
ちゃんとあります。
むしろ、
叱るから
「叱られないように」
誤魔化したり、
隠したり、
嘘をついたりする。
叱ることで、
信頼関係って
積み上がるのでしょうか。
「子どもは
叱られたがっている」
なんて言葉もありますが、
それって、
「普通の関わりでは届かないから
荒療治が必要になっている」
という状態ではないでしょうか。
だからといって私は、
「叱ってはいけない」
とも思っていません。
だって、
「叱る」も
「怒る」も、
なくなりません。
絶対に。
この世に
人間がいる限り。
善でも悪でもなく、
存在し続けます。
「叱らなくても大丈夫なんだ」
と気がつく大人がいる。
その一方で、
感情に任せて怒る大人もいる。
怒ったあとで
罪悪感を抱き、
その罪悪感を認めたくなくて
「私は怒ったんじゃない。
この子のために叱ったんだ」
と言いたくなる大人もいる。
どちらも、
人間がいる限り
なくならないのでしょう。
平和を願いながら、
自由を求めながら、
それでも私たちは
自分の中で葛藤する。
その葛藤があるからこそ、
自分の感情と向き合い、
自らを律することを
覚えていくのだと思います。
だから私は、
「怒ってしまった自分」を
正当化するために
「叱っただけ」
と言い換えなくてもいいと思っています。
怒ったなら、
怒った。
そして、
次はどう伝えようか。
それでいい。
子どもを律する前に、
自分を律する。
子どもを変えようとする前に、
自分の在り方を選ぶ。
モンテッソーリアン
姉倉花姫
それでも私は
一喜一憂せず、
自分の信念で
生きています。
姉倉花姫
ほしよみ堂小田原店にて

